
おままごと工務店 山羊と烏骨鶏が色々食べちゃわない用の柵門をまたまた 誰かがもういらないって捨てた板と枝でつぎはぎ扉の完成(永遠に未完成のまま完成とゆうことにする-スペインの有名なアンナンとか ガウなんとかさんも…そうゆう癖…?)
形あるものをあんまり作りたく無いとゆうのが本音だが 釘もスチール時間がたてば朽ちてゆくかな…
未完成とゆう曖昧さが日々の|気にかける|を生み出すような気がしている 〈体も痛いがあると気にかけるが 痛いがないと当たり前に思ってしまって気にもしない〉創造物は創って終わりではなくて そこからいかに使うか 劣化も老化も共に暮らしていくかで より滋味(美)深さが出てくるのだとも思っている
だから できた時は一見新しいようで1番綺麗で1番わざとらしい 馴染んで許容されて いかに周りと共鳴していってやっと生きてくる感じ
好みの問題かとは思うけれど
苗だって同じでスッキリ草かって 突如すでに育った苗を植え付けた光景はなんだか違和感 しばらくしてちょっと草が生えたり そこで吹く風になびいてちょっと斜めに育った苗ちゃん になった頃にようやくホッとする感じになるのも 同じ原理かもしれない
生きる世界 もしくは 次元の中で 私には見えるのに他者には見えないこともある 草だらけの中にしっかり育つ野菜が見える自分と 全部雑草に見える他者 とか
同じ世界にいるようでみんな違う世界に生きながら交わることもあるだけで その苗の違和感も ようこそ私の世界へと歓迎してしばらくしたらようやくちゃんと見えるようになってくる
物質としてはあるには変わりないけれど それを自分に関わる何かのエネルギー体と捉えるかどうかで 随分と自分との関係性 見えるか見えないかが変わってくる
いちいち街行く人の顔を覚えていないように たまたま同じ場所に居合わせていても 意識がそこに向いていないと見えないものに分類されて 異物とゆうより すでに無いも同じ 他と同化しているだけ
そのうち景色に馴染んでしまうだろう たかが未完成の柵門だが 朽ちていく様子の儚美をも見守りたいと想う
柵門のその奥は自然生えしてくる植物の園だ