
昨日。烏骨鶏のメスが放卵中、小屋を穴熊に襲われた。で、私が気づいた時は、すでに死んでしまっていて、お尻から噛みつかれて内臓が全部出されて…お腹の中がなかった。穴熊がうろうろしておるのは知っていたので、しまったやられた。だったが、穴熊より先に、目の前で死んでしまった烏骨鶏を素早く肉にすることをしなくては。お湯を沸かし、毛をむしり取って、、。全部終わって少ししたら小3の息子が学校から帰宅。「穴熊にやられたわ。で、内臓全部食べられてた」。って伝えたら、「じゃ、さばくん、めちゃ簡単やったやろ」が、第一声だった。「そうなんよ。いつもより、めちゃ楽だった」、普通は可哀想。が、第一声かもしれない。そう言わなければ、学校では道徳的でないと言われるのかもしれない。が。私は妙に、納得してしまって(本当の話で、本当にさばくのも早くて楽だったのだから) 彼の中では、命の循環が起こっただけで、囲っている不自然な人間中心の世界観で命を、物事をみていないんだ。猫だって、餌をもらってても襲うこともある。それならお腹がぺこぺこな野生の生き物が襲って当たり前なのだ、と当たり前に思ってたはずのことを、ちゃんと理解した。が。このままでは、毎日穴熊くんが鳥を襲ってしまうので、それはちょっと困るよなぁとゆうことで、箱罠にかけることに息子に手伝ってもらって、餌を取り付けたりしてた時、穴熊はそんなに力がなさそうだから、この辺まで、罠の仕掛けを引いていたほうがいいかも、とか、彼なりに考えて設置したら、今朝。可愛い顔しておとなしく箱罠に入っていた。今日1日。猫の餌や食べられそうなものをあげつつ、山に還そうと思(皮膚病になっていなかったら、捌いて食べたけど) 山に食べるものなくて降りてきてて、、病気も持ってるし、生きられないかもしれない。が、早くても遅くても土に還ること、捧げることが、私たち 生き物の命の最低であり最高の生きた証になるのでは、と思っている。命はながれ。ながれの中の命。